の数が増えていった

ある若い日、わたしは結婚1年後から年子を毎年産んで、3人目でダウンした。
病気になった。
その頃は、夫の仕事の赴任先を1?2年置きに転々と変わっていた陪月課程
引っ越しの段ボールと共に子供の数が増えていった。
見知らぬ土地なので、知り合いはいない。
乳幼児を3人抱えて、子育てだけの毎日を送っていた。

当時は今の風潮とは違い、男は仕事、女は家事育児。
夫はただの一度も赤ん坊のオシメを換えたことはなかった。
(当然、姑のオシメも)
で、一人きりで孤軍奮闘していたが、夫が帰宅するのは憂鬱だった。
夫の世話に手を取られるからだ。
今では考えられない、隔世の感。
どこの惑星の話だろう???
我々は、宇宙人か?

まあそういうわけで、わたしは身体を壊して病気になった。
さすがに年子3人の乳幼児を抱えて、母親が病気になると、さて、どうしたか?
初めの頃は姑が遠方から泊まり込みで手伝いに来てくれた試管嬰兒 香港
交代で実母も応援に駆けつけてくれた。
が、遠方でもあり、度々呼び出されては姑たちも対応できない。
さてさて、どうなったでしょう?
はい、ご想像の通り。
病気をしている本人の実家に転がり込むことが多いと思われるが、わたしの場合は、夫の実家にお世話になった。
夫抜きで舅、姑と同居。
長女は夫の実家の地元の幼稚園に入園した。
下の2人は、お姉ちゃん、行ってらっしゃい?!と、お留守番。
私たち母子は、夫の祖父母が住んでいた別棟で過ごした。
昭和4年築だが、キレイにリフォームされ、建具も表面を新調され、柱や床は美しく洗いにかけられ、快適な住まいとなっていた。
しかも、3食昼寝付き。さらに、手のかかる夫はいない。
代わりに姑が手助けしてくれる。
天と地の差。
天国である。
姑、舅は孫たちを可愛がってくれるし、わたしの健康状態を気遣ってくれる。
あれを手伝えだの、働けだの、言うわけもなく、自宅療養の身であった。
一年の療養期間を経て、夫は単身赴任を終えて、我々は今、住んでいる家に合流したbb牛奶敏感