設で過ごしたことも遠

さて、昨日は彼岸で墓参りをした。
姑の初彼岸お供えを親戚からいただいた。
19年前の、舅の初彼岸の時は17件お供えをいただいたが、今回は1件のみ。
時代の移り変わりを感じた倫敦樓盤

というか、初彼岸お供えが少なかったのは、姑が晩年は自宅ではなく高齢者施設で過ごしたことも遠因としてあるだろう。
舅が亡くなった時は、姑は今思えばバリバリ健在。
姑が自宅で舅を看ていた。
舅、最期の瞬間も病院ではなく自宅。
その様子を親戚や近隣の人々もよくご存知で、労いの意味や、今後、未亡人になる姑への応援の気持ちもあったのでは、と想像する。
それから19年、姑は(優雅な)独居生活を送った。
優雅すぎて、随分前に姑が持ち出していた、我々との同居案もいつの間にか立ち消えになった。
その気持ち、とてもよくわかる。
自分の最期までの数年は除いたとして、姑は配偶者亡き後は黄金の時期だったと思う。
向かうところ敵なし短租公寓
今のわたしと同じだ。

わたしもあと15年ほどは黄金期?
いや、大事なことを忘れていた。
わたしは、まだ未亡人ではない。
未亡人としての黄金期はちょっと延期され、今は普通の、ただのリタイア時期。
黄金期の後にはお一人様プラチナ期があり、わあわあと人生の締めくくりを満喫するのも束の間、やがて終焉に向かう展覽設計

まあそれはそれとして、初彼岸お供えが激減したことに驚いたが、わたしはちっとも落胆せず、むしろ有り難い気持ちだった。
皆さん、生活などにお金も要るし、もう不祝儀関連の出費は卒業されたらよいと考える。
いただくほうも、(わたし個人の感想としては)全く嬉しくも有り難くもない。
時代錯誤だと感じる。
しかし、律儀な方々が大変多く、自分の親などの時にいただいた限りは、またお返ししようとする。
延々と繰り返されるわけだが、、、
繰り返さなくていいとわたしは思っている。
だが、地域に拠点を置いている限り慣習を無視するわけにはいかない。